ジョーカー/もう、人間じゃない。

ジョーカーJoker/監督:トッド・フィリップス/2019年/アメリカ


登った時は、人間だった。降りる時には、ジョーカーだ。


新宿ピカデリー スクリーン2 M-24で鑑賞。公開2日目の2回目の回で、ほぼ満席でした。
たまたまこのタイミングで、マーティン・スコセッシが「MCUは映画じゃなくてテーマパーク」とか発言して炎上してるけど、もしかして『ジョーカー』観たのかなあとか思っちゃった。

あらすじ:ジョーカーになる。

ネタバレしています。
何がネタバレになるかわからないので、本文中、ネタバレの前に注意書きをしていません。未見の方はご注意ください。大オチバレの前には注意書きをしています。

おすすめ
ポイント
キング・オブ・コメディ』(1983年)+『タクシードライバー』(1976年)ていうのはかなり言われてると思うが、ほんとそれ。
脚本家の友人が昔、「殺人鬼と殺人者は違う」と言っており、これは「生まれ持っての殺人鬼というのは存在しない。人が殺人を犯して殺人者になるのだ」という意味であった。元はもしかしたら柳下毅一郎さんの発言だったかもしれないが、もう確認するすべがない。ジョーカー(ホアキン・フェニックス)は、生まれ持っての殺人鬼ではない。中見出しに書いた「登った時は、人間だった。降りる時には、ジョーカーだ。」というのは、最初の階段のことである。すべての階段に当てはまるかと一瞬思ったがそうでなかった。これは予告でもわかることなので、ネタバレではないと判断した。



人は皆、自身の人生においては主人公である。他人から見た時には、モブにもなる。人混みの中で一瞬すれ違った相手を、特別視することはほとんどないが、通りすがりの誰かにも人生がある。それをいちいち考えていたらパンクしていまう。都会でならば尚更だ。そんな中で人の目を気にして生きるのは相当にストレスのかかることである。人生をちょうどよく生きるには、他人を無視することも重要なのではないかとも思う。しかし、無視されつづける者の立場になると、これは耐えられない。

のちのジョーカーとなるアーサー・フレックは、突然笑いだしてしまうという精神病を患っていた。狭いアパートで、老いた母親(フランセス・コンロイ)の面倒を見つつ、道化師として働いている。治安の悪いゴッサム・シティで低所得者が生きるのは大変なことだ。母親は、30年前に自分の雇い主であったトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)が、必ず自分を助けてくれるものと信じて、手紙を書き続けていた。

なぜ母親は手紙を書き続けるのか。なぜアーサーはこんなに生きづらさを抱えているのか。それが明らかになるとき、今までの『バットマン』シリーズで様々なジョーカーたちが見せてきた、バットマンへの愛憎渦巻く執着心について理解が出来ると思う。ちなみに私が、バットマンとジョーカーの関係が最も密に描かれていると感じるのは『レゴ®バットマン ザ・ムービー』(2017年)である。

※追記
今作のジョーカーがすべてのジョーカーのオリジンではないため、上の段落は間違っているが、『レゴ®バットマン ザ・ムービー』のことは残したいので、そのままにしておく。


この映画は、ジョーカーの目線に寄り添い続けている。彼が主人公だから当然だ。そんな映画を観ていて何が起きるかというと、抱えきれないほどのストレスが溜まっていく。足蹴にされ、無視され、目を背けられ、バカにされて生きる者の人生を受け入れられるか。それほどの心の余裕が我々にあるのか。精神病を完全に他人事と感じることが出来る健康な人ならば、ジョーカーと自分を切り離して考えられるのかもしれない。

いつもの感想どおり、ちょっと私のことを書く。私はどんな映画を観ていてもすぐ自分と結びつけて考えてしまう。こと精神病に関しては、残念ながら切り離すことが難しい。一番悪かったときは過ぎており病識もある方だが、寛解には至らない。私をキチガイだと言う人も居るんだろう。というか、居るのは知っているんだよね。言える人はとても幸せだと思う。うらやましい。前に医者から「悪口を言われていると感じることはありますか」と聞かれ「悪口を言われるのは、もう当然のことなので無視しています」と答えたところ、「そこまで行きましたか」と言われたのだった。
あんまりこのことを考えると調子が悪くなるからやめよう。でも、私の名前で検索したら私の悪口が出てくることは知っているから、やらないんだよ。

※以下、大オチのネタバレを含みます。

大オチバレ前のクッションとして、ひとつ置いておこう。


このツイートは引用である。元はツリーにぶらさげてあるが、こちら。

どうやらこれも、ソースとしては雑らしい。『ジョーカー』では、音声は「クラウン」、字幕は「ピエロ」で統一されていた。これは日本で「クラウン」が通じにくいからだろう。ジョーカーの頬に流れる涙は、メイクではない。

さて、話を戻そう。溜まったストレスが発散されるとき。それは、ジョーカーが、コメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を射殺する瞬間である。この直前、ジョーカーはマレーに対して、非常にまっとうなことを話している。マレーは別に悪役として出てくるわけではない。アーサーだった時のジョーカーは、マレーに対して強い憧れを抱いていた。ところがマレーは、アーサーを笑いものにし、許可なくテレビで晒してしまう。このことについて私達が学ばなければならないなと思うのは、自分以外の人間を見下し、コンテンツとして消費することについて、もう少し慎重にならなければいけないということである。たまたま私は先日Twitterにこういうことを書いていた。


自分の過去の発言を掘り返したら、私も誰かをバカにして晒し上げていたことがあっただろうと思う。それはTwitterに限らずだ。残念ながら人は人の悪口を言ってしまうもので、これが治せないんだとしたら、少なくとも「やったらやり返される」ということだけ念頭に置くべきかとも思う。気をつけよう。

ラスト直前、人々はジョーカーを「ヒーロー」として扱い、声を上げているのだと私は受け止めた。人々に無視され続けたアーサーは、もう、そこにいない。アーサーにとって、ジョーカーになることは、幸福なのだろうか。死ぬまで終わらない絶望感を抱き続けることなのではないか。もう誰にも無視はされない。しかし、個人として愛されることもない。

人にはそれぞれ人生がある。当たり前のことだが、忘れてはならない。自分と、自分でない誰かは、何十年も違う道を歩んで、たまたま今日すれ違っただけだ。電車で偶然肩がぶつかった誰か。スマートフォンを見ながらフラフラと自転車を運転している誰か。映画館で隣りに座った誰か。その「誰か」が、自分とすれ違う瞬間に、「何か」へと変貌するかもしれないし、あるいは自分が、「何か」へ変貌するかもしれない。アーサーからジョーカーへの変貌のきっかけは殺人であったが、もっともっと小さい出来事で変貌する可能性だって捨てられない。これは他人事ではない。時々ほんとうにびっくりするくらい自分と考えが違う人もいるが、それでも相手を尊重する気持ちを持つべきなのだろう。

私は最初に「人生をちょうどよく生きるには、他人を無視することも重要なのではないかとも思う。」と書いた。ここまで文章を書いてきて、最初のこの気持ちは変わっていないが、ほんの少しだけでも相手に敬意を払うことも同時に重要だと思う。穏便に物事を済ませていきたいのであれば。人生とは? 一言で表せるものではない「それ」は、他の人と代わることが出来ない、自分だけのものだ。そして、誰かの人生は当然、その誰かだけのものだ。唯一無二の存在たちが、偶然、同じ時期に同じ惑星で生きている。たとえ一生わかりあえなくても。

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